負けず嫌いばどっちだ!?

カードゲーム、例えばトランプのババ抜きでも神経衰弱でも、子どもは夢中になって本気で勝ちに来るし、勝てば喜ぶし負ければ泣く。

勝ったことを自慢する子もいて、負けがちな子はトランプをやらなくなる。

負けてばかりいるのに好きという子は私に限れば会ったことがない。

そうかと思えば、自らカードを配る役に回り、自分に強いカードを配りズルをしてまで勝とうとする子もいる。

けれどそんな子はそもそも勝ち負けにこだわってもおらず、勝つ気分を楽しんでいるに過ぎないように見える。

だから周りの真面目な子にズルを指摘されても顔色一つ変えずあっさり引き下がって淡々と負けゲームをこなす。

私はこういう子がけっこう好きだ。

私はズルなんてしないけれど、勝ってもそれほど嬉しくもなかった。

そういう態度はゲームに失礼だと指摘されたことがある。

真剣に勝負しないのは負けを避けたいからだろうと。

だからゲームは必要がない限りやらないと言っている、それで何が悪いんだろう?

 

負けず嫌いというのは面倒臭い。

子どものように勝ったと言って得意になって、負けたと言って悔し泣きしているだけなら世話はない。

いい大人が得意になったり泣いたりするはずもないから、複雑な感情が交錯する。

私は負けず嫌いが過ぎて、悔しがっているのを悟られまいと必死だ。

なぜ人は、負けが確実な相手にさらに追い討ちをかけるのだろう?

それは、子どもであれば無邪気に振りまいていた得意満面の大人版なのだろうと思う。

もう勝ったのだから勝者なのだから、これでいい、ということはないのだ。

しかし本当に面倒なのはそれからだ。

ふと我に帰り得意になっている自分に気づいて、恥ずかしいと思う。

恥ずかしすぎるだろう。

家に帰ってから思い出したりしたらなおさら。

追い込まれる側に立った時は、悔しさを悟られまい、人間として一枚上手という最後の砦を守ろうと必死なわけだが、時々もう堪忍してくれと思う。

あなたが勝ち、おめでとう、よかったね、だから今すぐこの場から失せてくれないか?

そう言いたい衝動にかられるのだ。

 

そんなことを繰り返して、もう話をするのも億劫になって、ある時気づいた。

黙って聞いているから話に来るのだということに。

黙ってニコニコとうなづいているようお人好しはそうそういないのだ。

世の中世知辛いのだ。

これはひょっとして人助けではないのか?

と、あくまで優位に立ちたがるのである。