黄昏のインターネット
黄昏てはいない。
父が亡くなったので相続手続きをしている。
死に目には会えなかった。
二日前に見舞いに行って、医師からいつでも覚悟を、と言われたけれど、看護師は目ん玉を丸くして、今日は特別だったがコロナ渦なので面会はできないのだと言い放つくらいだから、それほど差し迫っていないだろうと何となく思った。
臨終を目前にした家族に、まさかそんなことを言わないだろうと。
あまかった。
家に戻った2日後の夕方、別の看護師から知らせが届いた。
死に目には会えなかった。
最終便で駆けつて日付が変わる頃にたどり着いた。
近くに住む親戚や妹たちが集まっていて、ひとしきり悲しみを分かち合ったのだろう、わたしが到着した時には気も済んだのか、笑みをうかべて温かく出迎えた。
わたしはマスクで顔が隠れるのを幸い、飛行機の中でシクシク泣いたので、プールで溺れたように胸が苦しくなっていた。
葬儀のあとで担当者がくれた葬儀の後にやることリストに着手した。
わたしは喪主で相続人代表だから、悲しんでいる暇がない、というのが常識なのだ。
滞在期間が限られているので、死亡届を出しに行った際に、大半の役所の手続きを済ませた。
どれと選ばず、並行して手続きを進めた。
手際がよすぎて呆れるくらいだ。
死に目には会えなかった。
話したいことはたくさんあったし、悔やんでもいる。
けれどももう会えないし話せない。
そそくさと悲しみたくない。
面倒なことはさっさと片付けてから、じっくりお別れをしたい。
負けず嫌いばどっちだ!?
カードゲーム、例えばトランプのババ抜きでも神経衰弱でも、子どもは夢中になって本気で勝ちに来るし、勝てば喜ぶし負ければ泣く。
勝ったことを自慢する子もいて、負けがちな子はトランプをやらなくなる。
負けてばかりいるのに好きという子は私に限れば会ったことがない。
そうかと思えば、自らカードを配る役に回り、自分に強いカードを配りズルをしてまで勝とうとする子もいる。
けれどそんな子はそもそも勝ち負けにこだわってもおらず、勝つ気分を楽しんでいるに過ぎないように見える。
だから周りの真面目な子にズルを指摘されても顔色一つ変えずあっさり引き下がって淡々と負けゲームをこなす。
私はこういう子がけっこう好きだ。
私はズルなんてしないけれど、勝ってもそれほど嬉しくもなかった。
そういう態度はゲームに失礼だと指摘されたことがある。
真剣に勝負しないのは負けを避けたいからだろうと。
だからゲームは必要がない限りやらないと言っている、それで何が悪いんだろう?
負けず嫌いというのは面倒臭い。
子どものように勝ったと言って得意になって、負けたと言って悔し泣きしているだけなら世話はない。
いい大人が得意になったり泣いたりするはずもないから、複雑な感情が交錯する。
私は負けず嫌いが過ぎて、悔しがっているのを悟られまいと必死だ。
なぜ人は、負けが確実な相手にさらに追い討ちをかけるのだろう?
それは、子どもであれば無邪気に振りまいていた得意満面の大人版なのだろうと思う。
もう勝ったのだから勝者なのだから、これでいい、ということはないのだ。
しかし本当に面倒なのはそれからだ。
ふと我に帰り得意になっている自分に気づいて、恥ずかしいと思う。
恥ずかしすぎるだろう。
家に帰ってから思い出したりしたらなおさら。
追い込まれる側に立った時は、悔しさを悟られまい、人間として一枚上手という最後の砦を守ろうと必死なわけだが、時々もう堪忍してくれと思う。
あなたが勝ち、おめでとう、よかったね、だから今すぐこの場から失せてくれないか?
そう言いたい衝動にかられるのだ。
そんなことを繰り返して、もう話をするのも億劫になって、ある時気づいた。
黙って聞いているから話に来るのだということに。
黙ってニコニコとうなづいているようお人好しはそうそういないのだ。
世の中世知辛いのだ。
これはひょっとして人助けではないのか?
と、あくまで優位に立ちたがるのである。
夜行バス
停留所の直近の温泉施設で顔そりをして食事してお風呂に入った。
なんて便利な世の中なんでしょう!
新幹線でいけば3時間だけれど、バスの二倍強の運賃、ホテル代もかかってしまう。
さて問題はバスの乗り心地やなあ。
以前も大阪から東京まで利用したけれど、乗り心地が良くて眠ることができた。
今回はどうかなあ。
今日は誕生日
令和元年5月23日
記念に洗面所で自撮りした🤳
公開する勇気はない。
需要もないだろうし、悪用もされないだろうし、ストーカー被害の心配もないだろうけど。
歳をとるって…
昨日昼NHKの番組で中尾ミエさんが可愛いばあばという可愛いベイビーの替え歌を歌ってらした。
高齢者を可愛いというのは無礼じゃないのか⁉︎なーんて野暮な事を言う年寄りは煙たがられる?
威張っていても笑われるし、普通にしているつもりが、もはや世間の普通から外れてしまってるし、どう生きればいいのか、若者よりよほど切実だわ〜
という割に悩んでないのが年寄りの図々しさ、世の中怖いものなんて病気と転倒ぐらいです。
あああめでたい還暦の朝になにをぼやいているのだ。
もっと殊勝なことが書けないのか。
お掃除ロボット始めました
今相棒はホームに戻る道筋を探してうろついている。充電が切れる前に、無事戻れるのだろうか?あちこち壁にぶつかりなら迷走している。
無事ご帰還👌
任せるのではなく、朝から付いて回って邪魔なものを退かせたり、歩いて欲しいところを導くようにわざわざ邪魔なものを配置したり、時には電源を切って抱きかかえて思うところにおろしてあげたりだの、世話を焼いているのだから、むしろロボットに使われているのかもしれない。
それは違うな、目的は私の家の掃除で、それ以外は自ら行えないのだから、やはり私がロボットの使い手でご主人様なのだ。
お掃除ロボットの、どんなところに最も感動したかといえば、壁の床の間の隙間のホコリをかきとるところだ。
目に見えるゴミを吸い取ったところで、大したことはない。
掃除が果てし無くやりがいのないものに感じる大きな理由は、よほどの労力をかけないとスッキリ仕上がらないためだ。
労力をかければスッキリするのだ。
けれども、他にやりたいことやらねばならぬことは待ち構えているし、壁と床の間のホコリをかきとるなんて作業は飽きるし、延々と床に這いつくばるから疲れるのだ。
その割に、翌日にはもう猫の毛だの人間の毛だの洋服の繊維だのお菓子のカケラだのが灰色のゴミの塊になって、壁の床の間や椅子の脚と床の間や、冷蔵庫と床の間に集まっているのだから、やりきれない気持ちになる。
お掃除ロボットが、硬い触覚のようなブラシをグルグル回転させながらそれらを丁寧にかきとっていくのを眺めていて、このロボットには私の気持ちがわかるのだと思った。
そのようにプログラムしてあるなんて、野暮なことを言ってはいけない。
アマゾンのレビューに、私と同じ感想は一つもなかったから、お掃除ロボットになにを求めなにに満たされているのかは人それぞれなのだ。
たぶん私は彼の挙動を大雑把にでも把握するまでは、付いて回ってあれこれ世話を焼くだろう。
私の痒いところに手を届かせるために。
近い将来AIに仕事を奪われるという話をよく耳にする。
お掃除ロボットが欲しいと夫に言っとき、フルタイムで働いているわけでもないのに必要ないだろうとの意見だった。
でもねえ、私も歳をとってちょっとは楽がしたいのよ、と心の中で呟いた。
お掃除ロボットに私の仕事の肩代わりをして欲しかった。
その目算はある意味外れた。
お掃除がらくになったのではなく、お掃除がパワーアップしたのだ。
体力とやる気、私の足りないところをロボットが補う。
奪われてはいない、すべて私の意思の的。
隅っこにホコリがないのは、真ん中にゴミが落ちていないより遥かに清潔で清々しい。